この文章は、2021年3月に発表された「北スマトラ州のアブラヤシ農園での雇用システムにおける人身取引に関する研究」の一部を日本語に翻訳したものです。
概要
この文章は、インドネシアのアブラヤシ農園において、『リクルーター』により非公式に雇用された『請負労働者』の実態に関する聞き取り調査の内容である。スマトラ島の西部に浮かぶニアス島は、2000年頃から出稼ぎのためにスマトラ島、カリマンタン島、パプア島への大規模な移住が広がったという。これらの『請負労働者』は、すでにその地域で働いているニアス人によって直接または間接的に雇用されている。
しかし、企業との雇用契約を結んでいる委託業者とは異なり『リクルーター』は正式な許可を持っておらず、聞き取りの対象者となった23人の労働者のうち、給与明細、ボーナスや労働者の権利など、『リクルーター』との書面上で雇用契約を結んでいる労働者は一人として存在しなかった。一般的に『請負労働者』は、企業から直接ではない請負作業に従事させられ、収穫、施肥、整地などの作業を行っている。給与はノルマ(面積や本数)や勤務日数に基づいた成果報酬制であるが、しばしば支払いが遅延したり支払われなかったりすることがある。また、防護服は自分で購入しなければならないため、身に付けていない人も多い。社会保障もないため、怪我や病気になったとしても治療にかかる費用は自分で負担しなければならない。
北スマトラのアブラヤシ農園における請負労働者の経験
請負労働者として働いたことのあるニアス人らの情報によれば、請負人、組頭、または組長(KR)という(専門的な)用語は1998年から知られていた、それどころか1995年から既に言われていたという。
請負人または組長(KR)という用語の出現は、スマトラ島、カリマンタン、パプアへのニアス人コミュニティの大規模な移住が急激に広がったことの証左である。彼らは、ある会社、木材伐採会社やアブラヤシ農園会社で既に働いているニアス人らによってリクルートされる。予想では、インドネシアの様々な地域、特にアブラヤシ農園へのニアス人の大規模移住のピークは、2000年頃だとされる。当時、組長(KR)毎に、1組につき20~50人の範囲で(労働力を)召集していた。
アブラヤシ農園において、一般的に、請負労働者は、会社から直接ではない請負労働に従事させられ、収穫、施肥、(草刈りといった)管理をさせられた。スマトラ島におけるニアス人人口増加の速さは、日雇い労働者(BHL)ら、またはニアスから召集された日雇い労働者(BHL)らの高い出生率も引き金となっている。というのも、彼らの大多数が、家族計画(Keluarga Berencana)事業に参加していないからである。
一般的に、北スマトラ州南タパヌリ県において、規模の大きいアブラヤシ農園は以下の2ヶ所である。
- 1. 南タパヌリ、アウスティンド・ヌサンタラ・ジャヤ(ANJ)・アグロ・シアス株式会社
- 2. 南タパヌリ、SKL・バタントル株式会社
マンダイリン・ナタル県においては、規模の大きいアブラヤシ農園は以下の10ヶ所である。
- 1. ランディ・プルマタ・ラヤ(RRR)
- 2. アヌグラ・ランカット・マクムール(ALAM)
- 3. マディナ・アグロ・レスタリ(MAL)
- 4. ディプタ・アグロ・レスタリ(DAL)
- 5. グルティ・レスタリ・プラタマ(GLP)
- 6. サゴ・ナウリ
- 7. リズキナ・マンディリ・プルダナ(RMP)
- 8. 第2区
- 9. リンバ・ムジュル・マフコタ(RMM)
- 10. ディナミカ・インティ・セントサ(DIS)
上述の10ヶ所の農園のうち、少なくとも5社でいまだに請負労働者がみられる。その他2社は日雇い労働者(BHL)という用語を使用しているが、日雇い労働者は農園の管理課に記録され、データ化されている。
…請負人は彼らの命運に関わる情報を遮断しており、請負労働者らが正規の労働者や職員と交流することを非常に制限している。
それどころか、他社では、日雇い労働者(BHL)は自身の銀行口座を持ち、給料は口座へ入金されている。企業で記録されている日雇い労働者(BHL)の他の言い方(用語)としては、調査地のある企業で働く日雇い労働者と同じ意味で、フリーランス(フリーの労働力、TKL)が挙げられる。
すべての請負労働者で、ニアス出身の労働者は90%、ニアス出身の請負人はほぼ全てに達すると考えられる。請負人は一人につき20~60人を働かせる。
請負人の用語は組長、組頭(KR)とも言われ、基準(面積や本数)と日数に基づいた成果報酬制で、作業を他者に委託する。そして組頭(KR)は、目標を達成するために労働者をリクルートし、リクルートした労働者へ自身で賃金を支払う。
聞き取りを行った農園職員、労働組合組合員や元請負人を含む、様々なインフォーマントからの情報によれば、請負人らは、明確な事業許可または管理許可を持たず、彼らのために働く労働者との間で書面での就業合意を有さない。
また請負人の一部は、労働者のリクルートにおけるよりどころとして、請負人らに請負労働を与える農園(いわゆる発注企業)からの業務指示書を持つのみである。明確な雇用契約、業務形態や事業許可を有する委託業者とは異なり、請負人らは、農園(発注企業)との明確な相互協力契約を有しない第三者であり、それどころか関連機関から労働力をリクルートする許可を持たない。というのも、聞き取りを行った23人の請負労働者のうち、給与明細、ボーナスや労働者としての権利といった、請負人との明確な雇用契約や賃金形態を有する請負労働者はひとりもいなかったからである。
請負労働者は安全保護具無しで働き、保護具が必要な場合は自身で購入しなければならず、賃金の支払いは頻繁に遅れ、まだ予算がついていないとの理由で企業の管理サイドから給与全額の半分しか支払われない…
とある農園(第1区)の社宅エリアに到着してすぐ、調査目的に関連したインフォーマントを集めるため、インドネシア農園労働者組合(SERBUNDO)執行委員長が他の組合役員に連絡をとった。しかし、その農園会社では、ニアス出身の請負人に日雇い労働を委託しているため、組合役員が日雇い労働者(BHL)を探すのは困難であった。組合員は全員がニアス人労働者で、その大多数がニアスから直接リクルートされやって来たのである。
当地の幹部の情報によれば、請負人は労働者の命運に関する情報をロックし、正規の労働者や職員と請負労働者が交流することを非常に制限している。
結果、その晩は、企業の管理サイドから明確な雇用ステータスが無い状態の収穫補助(helper)1人と、以前は日雇い労働者として働き、第1区で常勤職員として任用されたニアス人職員4人に対してのみ聞き取りを行うことができた。職員4人のうち1人は元請負人であった。
聞き取りは西部インドネシア時間(以降時刻については同時間帯)夜11時30分に始まり、未明の1時30分に終わった。その晩の聞き取りの目的は、日雇い労働者の問題をマッピングすることであり、また、ニアス島から北スマトラ、そしてインドネシアの他の地域を含む、農園へ移住したニアス人コミュニティの移住状況について広く調べることであった。
当該の補助労働者(1名)の聞き取りによれば、補助労働者(helper)は、企業から労働者に対し与えられた仕事の目標を達成するため、農園の常勤労働者によってリクルートされた労働者のことである。
企業は補助(helper)に対し何ら費用を負うことはないが、補助の住む場所や、労働上の事故、病気など予期せぬ事柄を含めた全ての賃金とニーズは常勤職員が負担する。
結果、補助のリクルートにおいて常勤職員らは、自身の支出を控えるため、まだ家庭を持たない者か、家庭を持っていても出身地に家族を残す者をより優先するようになる。
また、企業が日雇い労働者(という用語)を使用しなくなって以降、日雇い労働者が担っていた業務は請負人へと委託され、農園サイドから請負人へ、収穫、施肥、管理やその他作業が委託されることとなった。
請負人は自身で労働者をリクルートするが、その全てがニアス人である。仕事をしないかと村々で声がかかる。リクルートされた労働者の中には、請負人のことを組頭(KR)と呼ぶ者もいる。
ニアス人の出立についても組頭(KR)は費用を出す。請負人自身や請負人が信頼する者によって、住んでいた村でピックアップされたり、またシボルガまで行き、そこから農園まで連れて行ってもらう。
ニアス島出身の移住者の出立費用は、2~3ヶ月の間給料から引かれる。言い換えれば、目的地に到着した時点で、連れられた請負労働人らは既に負債を負っているのだ。
業務を開始して以降、請負労働者らは日々のニーズを満たすため、請負人から生活必需品をツケ(借金)で購入する。
生活必需品やその他必要なものの価格は、一般的な市場価格と比較して高額であり、30~50%の幅で高くなっている。
また、他の雑貨店で日々必要な買い物をする際は人に知られないようにせねばならず、農園で夫が常勤職員となっているニアス人の奥様方に買い物を言付ける者もいる。
日雇い制において、農園は、リクルートされ請負労働に従事する労働者の給料支払いに責任を有しない。彼らの給料は請負人によって負担される。
請負労働者らはまた、請負人によって契約された会社所有のバラック小屋に住まわされるが、小屋の状態は居住に適しておらず、労働者の子どもらは教育へのアクセスを与えられない。
2019年4月20日土曜の朝、とあるアブラヤシ農園のインドネシア(農園)労働者組合の(Serbundo)執行部員が、請負人にリクルートされた請負労働者らを日々監督する親方(職長、mandor)とリサーチャーとのディスカッションの場を設けてくれた。
親方(mandor)は農園の常勤職員の一人であり、労働者組合(Serbundo)の組合員でもある。ディスカッションにおいて、(今後の聞き取り調査が)請負人に知られることなく効率よく進むよう、請負労働者らの聞き取りの戦略を練るつもりであった。
結果合意されたのは、請負労働者らを2つのグループに分けて聞き取りを行うことであった。つまり、女性の請負労働者らと男性の請負労働者ら、ということである。
当該の7名の請負労働者(恐らく筆者の数え間違いだと思われる)への聞き取りから、第1区にいる請負労働者は全員がニアスから直接リクルートされやって来た労働者であることが分かった。ニアス県グヌン・シトリ郡の村々(現在グヌン・シトリはニアス県から分立し、グヌン・シトリ市となっている)出身もいれば、南ニアス県トゥルック・ダラム郡から来た者もいる。第1区農園に来る前は、アチェ・シンキル県のアブラヤシ農園で働いていたが、そこでの暮らしに耐えられず、請負人に電話して他に移れるように依頼し、それで(今の)農園(第1区)にやって来たという。
耐えられなかったと彼らが話す理由の一つに、ある請負労働者の子が亡くなった際、アチェ・シンキル県の彼らが働く場所に埋葬されたことがあげられる。
(出身地からの)出立以降、労働者らは出立費用として50万ルピアの借金を負担させられ、その分は就業開始3ヶ月の給料から引かれる。彼らは管理部の労働者として、既に処理され堆肥となったEFB(アブラヤシ空果房)を蒔いたり、盛り土(monding)をしたり、収穫をしたりして働く。
請負労働者として仕事をしてから、彼らの借金は増え続け、中には借金が300万ルピアに達する者もいる。働き初めの頃、請負として働く労働者は、働いて3ヶ月経って初めて賃金がもらえる。
給与の算出方法は日毎の成果や目標(達成)を数えるやり方で、請負労働者は、初めの3ヶ月が過ぎ、ようやく一月に1回請負人から賃金を受け取るのだ。
日々必要な物は、定価より30~50%ほど高い値段で請負人から売られる。仕事の備品を含め、請負労働者は請負人から分割払いで必需品を購入する。
最初の3ヶ月の労働を達成できない請負労働者は、生活費や出立費といった彼らの借金を返済する義務がある。

彼らは居住に適さないバラック小屋に住み、小屋には6つの扉があり、張られた板は脆くなっている。1棟のバラック小屋に5~8世帯、20~50人が暮らし、そのほとんどが子どもである。
ある請負労働者の説明では、暮らしに耐えられず、2世帯が逃亡したという。バラック小屋には、会社から電気照明が用意されていた。会社からの電気設備はいつも(電気が)ついていなかった(電気照明の(灯りがつく)長さは会社がコントロールしている)。この光熱費のために請負労働者は1ヶ月に2万5000ルピアを負担させられ、その費用は請負人に支払われる。
明け方4時、彼らは既に起床し、その日1日の子どもらの必要な物、また自分達の作業場で必要な物を用意する。
就学期の子で教育を受けている子は一人もいなかった。また、請負労働者が一日働いている間、(大人に)見守られた子は一人もいなかった。
乳児、幼児から青年手前まで、全ての子どもが15歳の子一人に預けられ、その子が一日中面倒をみている。
毎朝7時、請負人の迎えのトラックがやって来て作業場へ連れて行かれるが、夕方5時頃、バラック小屋へ送り届けられる迎えの車は時々しかやって来ない。請負人が迎えに来ないので、彼らはしばしば作業場から歩いてバラック小屋へ戻っている。
…リクルートの際、1日20万ルピアの賃金が得られると約束され、請負人は(そうした)条件をつけ、請負労働者になるかもしれない人たちが合意すると、請負人に4万ルピア支払わねばならない…
彼らの作業場からバラック小屋までの距離は少なくとも10~20kmはあり、徒歩で2~3時間かかる。バラック小屋に到着するのは夜の9時である。
請負労働者らは作業(のための)交通費(作業場の集合場所へ出発し、仕事が終わる頃ピックアップが来てバラック小屋へ戻る)として、請負人に毎月18万ルピア支払っているにもかかわらず、である。
2019年4月22日月曜日、インドネシア農園労働者組合(Serbundo)マンダイリン・ナタル県支部の元役員であるRS氏宅において、ニアス出身の3名の請負労働者への聞き取りを行った。インタビューは午後3時から夕方6時まで行われた。
2019年4月23日火曜日、(まだ居住者がいないため)空室となっている第2区の常勤職員の社宅において、ニアス出身の日雇い労働者(BHL)への聞き取りを行った。聞き取りには3時間を要し、午後1時頃から始まり、夕方4時半までかかった。また、中タパヌリ県ピナンソリ郡出身のニアス人請負労働者1名への聞き取りを、企業(第2区)のインドネシア農園労働者組合(Serbundo)執行委員長宅にて、夕方6時から夜7時半まで行った。
聞き取りでは、請負労働者の中には、ニアス島で直接リクルートをされず、マンダイリン・ナタル県やピナンソリ郡、その他北スマトラ州外の地域からリクルートされたニアス人もいるということが分かった。
(今の場所に来る)以前、彼らは、用地を開墾したり、現地住民のアブラヤシ農園で働いたり、その他民間の農園で働いたり、現地住民のゴム農園で働いたり、(ニアス島から移住して長く、ひと世代は経っているニアス人の)住民のゴム農園で働いたりしていた。
ニアスからやって来る請負労働者の交通費は100万ルピアかかり、これは請負人への借金となる。ニアス島を出発した請負労働者は、労働開始から半年を過ぎると、この交通費の支払いは無くなるが、もし半年もたなければ、この借金を組頭(KR)へ返済しなければならない。
組頭(KR)が採用しているのは、ベースと日数に基づいた成果報酬制である。請負労働には、男女問わず子ども(インドネシアにおける一般的な理解として、5~13歳あたりを指すのではないか)の労働者も含まれる。
日給制で働けば、成人(同理解として、13歳以降)の労働者は1日5万ルピア稼ぐのに対し、児童労働者は4万ルピアにしかならない。組頭は請負制にて労働を得る人である。
組頭は、(発注元の)企業の管理部によって委託された仕事を終わらせるために労働者を探す。組頭(KR)は企業側に記録された日雇い労働者(BHL)である。
常勤職員となっている組頭(KR)もいれば、企業の職員とは全く関係がない組頭もいる。請負労働者らは組頭(KR)に対して労働し、彼らの名前が企業に記録されることはない。そして請負労働者らに賃金を支払うのは組頭(KR)である。
この企業で日雇い労働者として働く者は、氏名が記録され、賃金は企業によって支払われる。請負労働者が日雇い労働者となるには、企業へ応募し、親方へ100万~200万ルピアを支払わなければならない。
請負労働に従事する労働者は、ニアス島や島外出身の請負労働者らと親族関係にあるニアス人の家(田舎の邸宅と言って良い)に暮らす。
彼らは、照明(電気)の無いバラック小屋や農園の邸宅には住まない。また、家から作業場までは企業の送り迎えのトラックがある。しかし、作業は保護具無しか、備品を自分で購入して作業している。
…ニアス人のある日雇い労働者は、掘削機(重機)の電子部品を盗んだと非難され、課長補佐(ASKEP)によって小便を飲むよう強いられた。当該の労働者は、企業の管理サイドによる調査議事録(BAP、通常は検察が起訴を判断するために、逮捕した容疑者を審査して警察が作成し、検察に送る調書のこと)作成のプロセスを経ることとなり、1週間事務所に留置され、窃盗行為を認めるよう強制され…
請負労働者らは今回の聞き取りに至るまで、組頭(KR)による賃金未払いの者が多くいた。企業に記録されている日雇い労働者らについても同様で、給与の支払いはしばしば遅延したり、予算がまだついていないという理由で、企業の管理サイドから全額の半分しか支払われなかったりした。
2019年4月23日火曜日、インドネシア農園労働者組合(Serbundo)マンダイリン・ナタル県支部の書記官であるRS氏(前述と役職が若干異なっている記載)宅において聞き取り調査は続けられ、ニアス出身の第3区の常勤職員3名と、非ニアス人の日雇い労働者1名が参加した。
その労働者ら4名への聞き取りから、ニアス人の労働者の多くは、ニアス島のそれぞれの郷土からやって来るのではなく、南タパヌリ県やマンダイリン・ナタル県(特にプランテーション周辺の村々)で出稼ぎをしていた者や、リアウ州から来た者であるということが分かった。
また、大体1年程前に、掘削機(重機)の電子部品を盗んだと非難され、ニアス人のある日雇い労働者が、課長補佐(ASKEP)によって小便を飲むよう強いられるという事案が発生した。当該の労働者は、企業の管理サイドによる調査議事録作成のプロセスを経ることとなり、事務所に1週間留置され、窃盗行為を認めるよう強制された。
しかし、当該の労働者は窃盗行為を認めなかった。そして、地元のNGOで働いているという、ニアス人の名士とされる人物へ訴えた。(若干誤植のため意訳)
その後、地元のNGOが第3区の企業の管理サイドへと責任を追求しにやって来て、もし責任が取られない場合、企業と、労働者に小便を飲むよう強制した課長補佐を問題があると見なす、とした。
その後、企業の管理サイドと労働者の間で調停が行われ、管理サイドが労働者へ調停金1500万ルピアを支払い、課長補佐はそのエリアから解任させられた。
この調停がなされた後、当該のニアス人請負労働者も仕事を辞め、ニアスの故郷へ戻ると言っていた。
2019年4月24日水曜日、あるアブラヤシ農園(第4区)出身の請負労働者1名へ聞き取りを行った。そのインフォーマントも、請負人にリクルートされたという。
第4区には、3名の請負人がいる。請負労働者の中には、他の農園で請負人にリクルートされた者もいれば、ニアス島でリクルートされてやって来た者もいる。
リクルートの際、1日20万ルピアの賃金が得られると約束され、請負人は条件をつけ、もし請負労働者になるかもしれない人たちが合意すると、請負人に4万ルピア支払わねばならない。
他にも、収穫(量)が請負基準を超えると、1キロにつき600ルピアが支払われるが、その内100ルピアは請負人の儲けとなる。
当該のインフォーマントは、自身と妻子を含め、請負人にリクルートされた5世帯のうちの1世帯であるが、うち2世帯は、仕事を始めてふた月に入ろうという時、請負人への1000万ルピアの借金の為、夜も明けぬ未明3時に逃走した。
請負労働者らは、逃走した2世帯を探すよう頼まれ、周辺の農園まで探しに行った。また、逃げた労働者の代わりを見つけるため、第4区の請負人は、代わりの請負労働者の(これまでの借金)は第4区の請負人が肩代わりする条件で、第4区へ労働者を送ってくれるよう、情報を集めたり、他の企業の請負人に話を持ち掛けたりした。
他企業の請負人が、他所の企業の請負人へ、第4区からリクルートした2世帯の借金の返済として500万ルピアを支払ったが、逃げた2世帯はその後行方が知られていない。(なるべく意味をつなげようと直訳していますが本文に間違いがあると思います。)
他の農園と同様に、第4区の請負人も、請負労働者に対して生活必需品を売っていた。もし請負人の雑貨店に買いたい物がなければ、請負労働者らは、その旨を請負人に伝える。そして(品物が仕入れられたら)市場価格よりも高い値段で請負人から買っていた。
2019年4月25日水曜日(恐らく木曜日の間違い)、第5区の(アブラヤシ農園)企業の請負労働者への聞き取りを行った。聞き取りを行ったのは(収穫担当の誤字だと思われる)請負労働者2名で、男性SG氏と男性BI氏であり、日雇い職員(KHL)として任用された(恐らく脱字)労働者1名が同行していた。
インフォーマントによれば、第5区では、ひと月に50~70万ルピアの電気料金が職員に科されるため、退職する労働者も多いという。
第5区の日雇い職員(KHL)は、達成すべき作業基準の負担の問題だけでなく、企業に手離され働くことを許されない日雇い職員の多さ(の問題)についても不満を漏らしていた。(離れていった職員が多い)結果、人数が限られてしまい、作業基準を達成することがとても困難になっている。さらに(給料から)引かれているにもかかわらず、BPJS社会保険(政府掌握の皆保険制度で加入が義務付けられている)証はまだ発行されていない。
調査班によって行われた観察結果では、農園における労働者らの結社の自由は非常に制限されている。それどころか、労働者らの力を削ぐ兆候すら見られる。というのは、(自身の)目の届く範囲を広げようとしているのではと思える、企業主導で結成された組合があり、その組合に参加しない労働者の結社の自由を弱めているからである。
第5区の企業では、日雇い労働者(BHL)という用語は日雇い職員(KHL)と言われ、幾つかの権利を有し、農園に登録されている。
日雇い職員となるには、1日、1組につき1トン750kgの収穫量を達成する(誤字あり)必要がある。彼は例えば3トン650kgという収穫目標に届かないことがしばしばあるという。収穫量は3トン555kgと目標のほとんどに達しているにもかかわらずである。そのため、さらに多い量の基準に沿うように命じられても、収穫担当らはやる気がわくことはない。
「私は日雇い職員になって既に3ヶ月だけれども、収穫担当の任用はまだされていないね」と友人が同行しているインフォーマントのひとりであるBI氏が語った。BI氏がこの農園にやって来たのは(人に)連れられてではなく、ひとりでやって来たと知られている。(先の記述ではBI氏は請負労働者となっていたが、ここでは日雇い職員になったと自分で言っている。)
BI氏は、収穫担当であるが、BPJS社会保険証がまだ発行されていないことを認めた。彼はまた、農園の基準(最低目標)が高いと不満を漏らす。「我々のような収穫担当は20人、それこそ解雇されていなければの人数で、決められた基準に達するために、作業する人は13人、よくて15人は欲しい。(」がぬけている)
一方、他の収穫担当は免職させられ作業が認められておらず、日雇い職員もただ寝ているだけである。農園が決めた作業日数は12作業日しかないのにもかかわらず、である。
そのような作業日数で得られる給金は、日々のニーズを満たすには不十分である。ましてや、家庭を持っていれば尚の事である。
本来、収穫担当の日雇い職員は優先すべきであるが、現在、フリーランス労働者として、日雇い職員(KHL)の扱いは大体がそのような状況である。「無理矢理(目標量を)くっつけたらそうなるよね、2列こなさないといけない、2列やり終えたら終了、目標基準の倍じゃなくて、3トン555kg。基準に届かないのは、収穫担当だけ。」
「もういいや」ともう一人が言った。「彼はこの会社に1年以上いるね」と日雇い職員(KHL)に任用された労働者が、友人の方に視線を移しながら話を続けた。友人とは、まだ日雇い労働者(BHL)のままのSG氏のことである。
調査班の聞き取りの際、SG氏は、スマトラ島に移る前、(ニアスの)村ではゴム農家をしていた。「食べれない、(ゴムの買い取り)価格が無いに等しいもの、1キロほんの7000ルピアだけ」と語った。
(SG氏が)リクルートされたのは、収穫担当の職員が、Yという人物に、新しいメンバーをリクルートするよう命じたことが始まりである。
「自分の田舎にメンバー(になってくれる人)がいる」と、ニアス出身でもある収穫担当が告げると、Yはメンバーを探しに行き、農園へ(メンバーを)連れて来た。リクルートにかかる費用は収穫担当が負担した。
リクルートの際、アブラヤシ農園で働くため、Yという人物が村まで迎えにやって来た。費用は会社が負担した。SG氏は1年以上(農園で)(脱字あり)働いているが、まだ日雇い職員に任用されていない。その理由は、書類が不十分だということだ。
「当時、住民登録証(KTP、インドネシア国内で一般的な身分証明カード)と家族カード(KK、日本でいう戸籍謄本)が無かった。既に家庭を持っていたけど、家族カード(KK)ではまだ独身になっていた」と話した。その後、SG氏は書類を揃えたが、2019年4月から1ヶ月が経過している(がまだ任用されていないということだろう)。
本来、迎えられた労働者らは、3ヶ月の間、研修期間の労働者として雇用されなければいけない。会社が必要とすれば、通常では、さらに3ヶ月間雇用される。
6ヶ月(脱字あり)が経過すれば、本来ならば、自動的に日雇い職員(KHL)として任用されるべきである。日雇い職員(KHL)らは既にBPJS社会保険費を給料から引かれているのに、保険証はまだ発行されていない。1年経ってもまだカードが発行されていないのに、社会保険費は給料から引かれ続けている。
2019年4月25日水曜日(恐らく木曜の間違い)、第6区の請負労働者へ聞き取りを行った。聞き取りを行ったのは2名の日雇い労働者で、北ニアス県ラヘワ郡出身の男性MZ氏と、同じく北ニアス県ラヘワ郡出身の男性AZ氏であった。
…彼は、仕事と、妻子と住むための住宅が用意されることを約束され、兄と共に建設中の家を残し、組頭の言う農園へ家族を連れて行くことを決めた。約束された住宅がないため、彼は落胆した。以前(組頭が)負担した(出立)費用の借金に加え、日々のニーズを満たすため、組頭へ(さらに)借金をし…
AZ氏は農園の親方であるという組頭(KR)にリクルートされた初めの頃からの経験を話してくれた。当初、彼は、仕事と妻子と住むための住宅が用意されることを約束され、結果、彼は兄と共に建設中の家を残し、組頭の言う農園へ家族を連れて行くことを決めた。
彼は落胆した。約束された住宅がなかったからだ。以前(組頭が)負担した(出立)費用の借金に加え、日々のニーズを満たすために(さらに)組頭へ借金をした。
激務の成果(としての給料)も受けなかった。約束に従って、仕事を始めて3ヶ月後に始めて給金を受け取ったからである。それすら、組頭への、日々の買い物のツケや交通費の借金の分が引かれている。ついに、AZ氏は引きあげる(その仕事から離れる)ことを決めた。
AZ氏の他に、MZ氏に対しても聞き取りを行った。MZ氏は、失敗した事業でこさえた借金のためニアス島の郷里から出稼ぎに来ていた日雇い労働者であり、信用貸し業者への借金が2500万ルピアもある。
海に出る(漁業)事業が上手く発展せず、利息で負債が膨らみ続けた。ついに彼はニアス島を去ることに決めた。
ニアス人コミュニティ出身の日雇い労働者らが働く農園の情報収集の後、調査班は、請負労働者の存在と出身地域から彼らがリクルートされた制度に関連した情報の整合性を確認するために、その他のニアスの地方を最も代表していると考えられる出身地(の人)に焦点を当て、データを収集した。
2019年8月28日水曜日、ニアス県ボトモゾイ郡シマナエレ村において、5名のインフォーマントに対し聞き取りを行った。その5名は、村役場職員、小学校の非常勤教員で、南ラブハンバトゥ県コタピナン郡の国営第3農園公社の労働者の子であるNIH氏(21歳)、南ラブハンバトゥ県のある会社で働く請負労働者のおばであるNdH氏(75歳)、ある会社で働く請負労働者の親であるBdH氏(70歳)、2019年8月28日(聞き取り当日の夕方)に第5区の会社へ出発させられる日雇い労働者候補のHrH氏である。
2019年8月29日木曜日には、ニアス県イダノガウォ郡ヒリナア・タフオ村において、6名のインフォーマントに対し聞き取りを行った。その6名は、ヒリナア・タフオ村役場職員、3丁目出身の日雇い労働者の親族・従兄弟で2丁目区長の妻AgH氏(43歳)、2丁目区長のDIH氏(54歳)、ある会社で働く日雇い労働者の子であるFdN氏(17歳)、第6区の元日雇い労働者で、第1区の請負労働者であるArH氏(32歳)、第6区で働く日雇い労働者の妻のYsH氏(48歳)である。
シマナエレ村職員は、北スマトラのアブラヤシ農園の労働者の大多数は、我々ニアス人であると認めた。「この数日で多くが出立したよ」と彼は述べた。
シマナエレ村は、6つの集落から成り立っており、現在の人口は2300人、140世帯ほどと記録されているが、村に残っているのはその65%である。つまり35%が既にニアス島を出ている。「大体が南タパヌリ県のアブラヤシ農園(にいるん)だよ、マンダイリン・ナタル県(にいた村出身のニアス人労働者ら)はみんなバラバラになってしまった」とMIH氏(前述のNIH氏のことで誤字だと思われる)は語った。
他の村の状況については、ヒリナア・タフオ村長FZ氏(53歳)によれば、同村は(?脱字?)集落から成り、人口は2500人、400世帯以上が暮らす。
村の人口分布は、大多数が2丁目と3丁目に暮らしている。記録された人口データによれば、50%が既に村を去ったことが確実で、スマトラ島へ仕事を探しに出稼ぎに行っている。その多くはアブラヤシ農園である。
「教会でも信者数は1100人なのだが、いるのは500人、半数はあちら(スマトラ島)だ」とFZ氏は話す。
以下は北スマトラのアブラヤシ農園で働く請負労働者らの経験の一部である。

YS氏、第2区の請負労働者:子どもは5人いる。ニアスを出てまずシマタンギアライに行き、それからここに来た。ニアスを出たのは、日々のニーズを満たすため。
以前おじいさんが、請負人と出会い、ここで請負の仕事があると声をかけてきた。どうしたらここで受け入れてもらえたか、我々4人が受け入れられた。それが請負人の仕事だった。どういうステータスだったかは分からない、明らかなのは我々4人が受け入れられたこと。請負人が迎えに来た。
借金として50万ルピアをもらい、出発した。僕は親族と一緒にまず地区長の家に行った。地区長の家は昔(当時)おじいさんの家で、我々はみんなそこで暮らしていた。僕の血のつながった祖父だ。
請負人も我々おじいさんの親族の一員で、おじいさんが請負人の義父にあたる。請負人の名前はウェスと言って、おじいさんの家に1年以上(一緒に)暮らしていた。
3日ほど続けて作業をした。何をしていたのかというと1ヘクタールの(森の)伐採で、2人いたり、1人いたり、作業するのは決まっていなかった。3日の人もいれば、4日の人もいたり、どれだけ作業が早いか次第だった。(出立のための)交通費の借金を支払うのは分割払いだった。
僕が分割払いをしたのはひと月あっただろうか、交通費の他に、食事代も借りていた、もちろん、ツケ(借金)(より正確には、勘定書や伝票のことから転じてツケ、とした)で、それが全部分割払いで、ひと月はあったと思う。それで毎月、ツケがあって、ツケのない時は無かった。あと3人の知り合いもみんな同じ。
我々の状況はずっとそんな風で、2014年に仕事を始めてから今まで、ツケ(借金)は増え続け、ひと月で大体100万ルピアほどになった。100万ルピアで米、砂糖、塩、なんでも(要るものを)買った。親方にこの話をした人はいなかった。
教会へは歩いて行く。2キロほどある。親方らに、「収穫担当の募集はあるのか?」と聞いたことがあったけど、「ない」と言われてしまった。
「年が越えている、年がいっている」と言われた。自分には分からない。作業場へは徒歩、遠いし、帰りも歩き。仕事に出るのは7時だったり、6時だったり、伐採する場所に着くのに半時間ほど、帰る時間は決まっていない、請負作業だから。
どれだけ作業にかかるかも分からない。広さによる。仕事に来て、草木を刈って、借金をもらう。おじいさんの家に住まなくなってから、バラック小屋で暮らしている。組頭(請負人)が(用意して)くれたバラックだ。もし借金を完済しても、貯金はできないと思う。給料が十分じゃないから。
請負人は、給料は上げられないと言う(誤字あり)。本当にこれくらいの値段だって。親方にも聞いた。財政を担当してるのはマネージャーだから。親方は(マネージャー)に聞く勇気が無かった。僕はまだ日雇い労働者(BHL)のステータスはなく、日給を稼ぐ程度だった。給料をもらう時、サインをしたり明細をもらったりはなかった。オフィシャルじゃないから。
AL氏、第2区の請負労働者:リクルートされたとき、先に出発した人もいたし、(自分の)後に迎えに来られた人もいた。
2012年に迎えがきた。1日かかってここに来て、すぐ仕事をした。彼ら(恐らく既に農園にいた労働者で職員のことだと思われる)は以前も請負労働者として働いていて、請負人は我々の親族でもあった。グヌン・シトリ出身のね。
でも彼ら(同上)の村の名前は知らない。請負人はリンガバユ郡のシンパン・ソルダン村のシンパン・サウォに住んでいた。請負人も作業していた。職員だった。
請負人は自分勝手ばかり言った。自分の取り巻きに「ああ、もういい、1ブロックずつだ」と。前は請負労働者らがいたけど、今はもう辞めて、フリーランス(THL)だけ。僕は収穫担当だけど、職員じゃない。同じバラック小屋の隣人は、伐採担当。
僕が収穫の仕事を始めたのは2016年。以前3ヶ月収穫の仕事をしたことがあった。(10月?誤植か)フリーランスの労働者(筆者注:BHL(日雇い労働者)の意)は、ランプ(照明)はない、電気はない、水はある、シャワールーム(トイレ)はバラックの10mほど外にあって、混んでいる。子どもは学校に行けていない、1棟のバラック小屋で学校に行けている子は一人もいない。1棟のバラックは6つ扉がある。
みんな学校に行っていない。ここには、4年働いてやっと職員になった人、3年で職員になった人、2年で職員になった人いろいろいる。日雇い(筆者注:BHL(日雇い労働者))よりも職員の方が多い。親方に尋ねたこともあったけど、「お前は追って(職員になるだろう)な」と言われた。
それで、「いつ?」というと、「まあ待て」と。僕は待ったけど、その後知らせはない。僕の親もまだ職員じゃない。我々みんなそう。親はもうここで働くのを辞めてしまった。
親は今この農園を出て、シンパン・サウォに住んでいる。畑に行ったり、樹液を刈って採ったり、日雇いの仕事があれば、日雇いの草木刈りをしたりしている。
(親が住む)地域はこの近くで、ここに似ている。僕は家族を持っていて、バラックに家族と暮らしている。4人子どもがいたけど、今元気で生きているのが2人。ひとりは、朝井戸に連れて行った時はまだ元気だったのに、なんの病気だったか分からないけど、3歳で亡くなってしまった。
もうひとりは、生まれてすぐに亡くなった。(お母さんのお腹から)出てすぐのことだった。今元気な子は2歳と3歳、奥さんはシボルガ出身のニアス人。
奥さんはお母さんのいとこにあたる。僕の父親が結婚するように言った。当時16歳だった。今は奥さんはバラック小屋にはおらず、僕の親と一緒に暮らしている。家は僕が建てた。働いて少しずつためたお金で。家は床から壁半分の高さまでセメントで塗り固めた。家が建ってまだ5ヶ月。ここでは、職員と(請負労働者、日雇い労働者らは)交流が許されている。
自分たちが暮らすバラック小屋の他にも、バラック小屋に暮らすニアス人がいる。2kmほど離れたところにあって、そこには5世帯、さらに別のところにもバラック小屋があって、そこには8世帯がいる。
ニアス人がここまで来ることができるのは、親族に教えられて。ここには請負労働者はいない。仕事の負担で言えば、どうして職員は米を支給してもらえて、フリーランスにはないのかと言うことは問われなければいけない。
何が違うんだろう、彼ら(職員)は39キロまで米を支給してもらえる。僕自身は会社側にそれについて尋ねたことはないけど、不思議に思って親方に(ここも恐らく誤植)聞いたことはある「職員とフリーランスの違いって何ですかね?」って。
親方は「だってお前はまだ職員じゃないだろ。職員になったら、米をもらえるんだ」って答えた。続けて僕は、「じゃあいつ職員になれますか?」と聞いた。(親方の)返事は「待て」だった。米の支給がないことに加えて、フリーランスには、電気もないし、子どもの学費ももらえない。
2019年2月から特別賞与(プレミアム)ももらっていない。前もらったことがあったのは、たった5万ルピアぽっちで、2012年だった。(その年の)2月か3月から今(2019年4月)まで、一度ももらっていない。
労働契約はない、給与明細もない。SKO職員(SKUのことだと思われる、syarat kerja umum(雇用条件の意)の略、農園業で使われる職員の分類で、一般的にはharian(日給)とbulanan(月給)に分けられ、常勤職員扱いとなり、給料から税金も引かれる)になったら、生活保障があるし、米の(手当か)費用や医療費を引いても手取りで330万ルピアもらえる。SKO職員になるには、フリーランスを3年半務めなければいけない。SKO職員はフリーランスとBPJS社会保険の面でも異なる。(フリーランスの我々は)まだ会社からの社会保険なんてない。
農園で必要とされているのは労働力のみ、(それ以外はここには)何にもない。僕らはバラック小屋があって、米もある。農園サイドが地元住民と関わっている(関係を保っているの意か?)から、僕らはみんなバラック小屋に暮らしている。
例えば、第3リンクはまだプラズマ(小農)農園だけれども、第4から7リンクはもう彼ら(職員か会社の意か)自身の農園になっている。(農園会社はプランテーションの5分の1を地域住民のプラズマ(小農)農園としなければいけない、2007年の大臣法)だからそこ(4~7リンク)に社宅がある。第3リンクはまだプラズマで、農園サイドはまだ地域住民に借金をしている状況、昔は農園サイドにまだ補償金の支払いがあったから、そこではうまくやれなかったと聞いている。(プラズマ農園の設置過程?もしくはそこをさらに買い取り?の際に地元住民と農園サイドが揉めたのだろうか?)
でも自分たちには分からない。ここはフリーランス(日雇い労働者)の19世帯がいる。みんな一斉に来たわけじゃない。例えば、来て3年になる人や、2年働いている人もいる。
SKO職員になるには、まずこの仕事を3年やれ、と。僕みたいに他の人より先に出立した人間は、他の人より先にSKO職員になる(はず)。職員のポジションってそうだと思うけど、ここに入るために必要だったのは、住民登録証(KTP)の写し、家族カード(KK)の写し、証明写真、応募書類がフリーランスとして入るために、労働契約書はSKO職員になったらもらえる。
僕たちはまだ労働組合で闘えない。まだSKO職員じゃないから。会社には請負人もいて、人を連れてくる、親方の役割も担って、SKO職員の立場。日給は5万ルピア。
請負の仕事は、1ヘクタールで30万ルピアだったり、25万ルピアだったり。もし彼がひとりで1週間1ヘクタールを作業したら、1週間分の給料はその額になる。
つまり、1ヶ月で(作業できるのは)4ヘクタール、100万ルピアになる。請負人が(フリーランスに対して)給料を支払うけど、もし支払われなければ何もできない。時々、組頭は言い訳で取り繕おうとする。「僕の給料は?」と聞くと、「オフィスからまだ支払いが来てないんだ」と答える。
どうも給料は組頭(KR)がくすねているみたいで、食べるのにも組頭にお金を借りなければいけない。500万ルピアも借りている人、借金が1000万ルピアになる人だっている。
フリーランスは、空きがあればバラック小屋に住むことができる。もし空きがなければ、他の居住者みんな一緒になって暮らす。
最近、親方は4人いて、親方ひとりが、よく25~30人くらい労働者を連れてきていて、他の農園でも同じみたい。でもオフィスの職員は、そういった日雇いの仕事はしたくないみたい。
そういう人はいらない、働くのは男だけでいい。だからバラック小屋に暮らす人が日雇いの作業をする。僕たちは収穫担当が50人、SKO職員が50人、僕たちの奥さんも同行する、それが作業するメンバー全員。
時に自分で家を作ったりする。バラック小屋で暮らすスペースがないフリーランスのためにテントを立てる。集落にほんのわずかばかりの土地を買った人もいる。収穫担当ってそのようなもの。
何にも手に入らない。SKO職員は違って、宗教大祭手当(THR、宗教の大祭の日に合わせて会社が従業員に支給する手当)もある。医療費もある、米ももらえる。肉を買うお金も。今は(自分は)何ももらえない。会社は、田舎から人を連れて来い、と言う。
昔、僕がここに仕事に来る前は、僕のおじさんが、農園で働く人を探して来いって言っていた。昔は本当に働き手が足りていなかった。
今、収穫担当はフリーランスにさせているけど、草木を刈るのは日雇い労働者で、5万ルピアになる。作業は朝の8時から昼の2時まで。
この会社には日雇い労働に90人以上がいて、他の会社では日雇い労働者は50人くらいいる。
僕のところは、もし病気になったら、例えば足の骨が折れたり重い病気になったら、クリニックへ行きたいと事務所へ報告する。もし報告できないと、具合が悪くて仕事ができないし、給料ももらえない。
今日、ずっと長くフリーランスをやっている人が(恐らく組合に)入ってきた。3年も働く僕の友だちよりも長い人。本当は、ずっとフリーランスでやっていてSKO職員にまだなっていない人がたくさんいるけど、そういう人は(会社を)恐れている。労働組合をやろうにもこのようにこっそりとしかできないんだ。
AL氏(男性)、第2区の請負労働者:僕の田舎は南ニアス県ススア郡ヒリザムルゴ村。親はニアスで田んぼをやって生計を立てていた。6人兄弟で、僕が一番上、下に5人。村では一人で暮らしていた。
2011年にアブラヤシ農園にやってきた。当時はまだ中学1年生で、学校を辞めてここに来た。親が僕を迎えに来てくれた。
親は家族みんなで集まって暮らしたかった。ここにやって来て、僕はすぐに伐採の仕事を始めた。1日の給料は3万ルピアだった。働き始めた頃、ひどく疲れを感じていた。疲れ果てていた。
親と子で給料が違うことはなかった。僕は学校の先生をとても慕っていて、学校を去ることがとても残念だったけど、どうしようもない、親について行くとはこういうことだよね。他の知り合いはいなくて、僕だけがこんな状況。ニアスに戻る時は、会社が交通費をくれることはない。
僕たちは自分たちで交通費を出して来た。村からここへは30万ルピア、道中は1泊2日かかった。南ニアスを7時に出て、グヌン・シトリ市に11時に着いて、一晩そこで泊まる。
重い病気になったことはないけれど、体調が悪ければ自分でお金を出す。下の弟たちは学校に行った子はいない。一番下は2歳、そして4歳、8歳、10歳、最後に19歳。お金がないので彼らは学校に行っていない。家では、お兄ちゃんと呼ばれている。
僕たちが暮らすところには、電灯(筆者注:電気/照明)がない。バラック小屋に暮らしている。バラック小屋ではオイルランプを使っていて、小屋の真ん中に置いている。いつも僕は朝起きると、少しおしゃべりして、それから用意をする。仕事に行くのは、朝の7時に家を出て、帰りは決まっていない。2時だったり3時だったり。あの日は送迎があった。
僕たちはプラズマ農園のところで草木を刈る作業をする。作業を終えて帰りは歩いて帰ることが多い。会社の送迎があっても、給料から引かれることはない。歩いて帰る場合、家に着く時間はもちろん決まっていなくて、4時に帰ったり5時に帰ったり。歩きは遠くて、5キロあったり10キロあったりする。家に着いて、水浴びをして、食事をして、グヌン・シトリからきた知人らと遊ぶ。
僕たちはひとつのバラックに扉が6つ。うちグヌン・シトリ出身の人たちが扉5つ分。1家族やって来て、また1家族やって来て、とバラバラにやって来た。
学校は中学校、2年生で辞めた。たくさん理由はあったけど、ひとつは経済的な理由。お母さんが亡くなってから、お金を稼ぐ人がいなくなった。父親は歳をとっていた。もちろん父親も畑で仕事をしていたけど、自分の畑だけど、手伝いだけ。僕たち兄弟は男5人に女1人、みんなまだ結婚していない。
兄弟で僕だけが働いていた。他は働いたり、働かなかったり。畑では樹液の採取が収入になるけれど、雨が降れば仕事ができない。乾燥してはじめて作業ができる。こうして、僕が家族を助けていた。僕たちはどうやってここに来られたかは知らない。お父さんは独り身で、ここに来ていた。
どうやってお父さんがここに来れたかは分からない。僕たちはここで生まれたから、どうしてお母さんとお父さんがニアスからここに移って来れたのか分からなかった。ここに来た最初はお父さんだけだった。
今はお父さんはもう亡くなってしまった。でも、まだニアスに帰ろうという予定はない。僕は会社で、だいたいもう3年は働いている。そこに入れたのは2番目の兄貴のおかげだった。
兄貴も会社にいたことがあった。1年仕事をして、それから僕を入れてくれた。でも僕らは親方と個人的に仕事をしているようなもので、以前兄貴が仕事についた時、親方が「お前はいくらいくらお金があったら(会社に)入れるのに」と言っていた。
条件はそのようなもので、兄貴はそのお金を用意して、間違っていなければ100万ルピアほどだったと思う。それで2017年2月に兄貴は田舎へ帰って行った。それで僕が入って、でもオフィシャルで入ったわけじゃないから、名前はまだ兄貴の名前のままで仕事をしていたけど、1週間前、ようやく自分の名前を使うことができた。2017年から2019年まで働いているね。僕の名前が会社に入れられたのが1週間前、会社では収穫の仕事をしている。
僕は朝から昼の12時まで働いて、帰っている。ある時、1ヶ月働いて、特別賞与(プレミアム)がたったの1万5000ルピアだったことがあった。本当は特別賞与がいくらなのか、金額が変わるのか、僕はよく知らないけれど、その額はちょっとあり得ないのではないかと思う。少なくとも、1万5000ルピアよりはきっと多いだろう。この間、僕の名前が既に(会社に)登録されているかいないかは分からないけれど、2017年からずっと働いているのに。
僕らは働く前に出欠をとる。サインをして初めて仕事に入れる。この間、サインは兄貴の名前だった。1週間前から、ようやく自分の名前になった。もう兄貴の名前じゃない。(この間)ずっと黙っていたし、誰かに聞くのも嫌だった。兄貴の名前はジャハっていった。
自分の名前を使うようになってから1週間、まだ給料日は来てない。僕らは休日以外毎日仕事をしている。この1年、僕の給料は、1日8万5000ルピアで、給与明細はなくて、名前が記録されているだけ。
給料日は、オフィスに呼ばれる。はいいいです、サインをして、それで給料をもらう。日雇い労働者の部門が支給を担当している。ここでは、フリーランスと呼んでいる。給料は1ヶ月に2回支給されていた。でも先月から、僕らの支給は1ヶ月に1回と決められた。
僕が思うに、1ヶ月に2回の支給の方がいい。なぜなら、僕らには必需品を買うための援助がないから。僕らは働いて初めて賃金を得る。SKO職員と違って、1ヶ月に1回よりも1ヶ月に2回の支給の方がいい。他のフリーランスの人たちはよく知らないけれど、僕らは、4人のフリーランスに1人の親方がいる。
SKO職員含めて、全員で10人と親方1人。10人のうちムスリムは一人だけで、他はみんな同じニアス人。ムスリムの人はジャワ人。
ここで生まれたニアス人は僕だけなのか、僕にはよく分からない。僕より年上が3人いるから。ここで生まれてここで働くニアス人もいる。(原文ママ)僕はパダン・シデンプアンにいる時から家庭を持っていて、小さい時にそこからやって来た。(原文ママ、次のインフォーマントの内容を誤植?)
FG氏、第2区の日雇い労働者(フリーランス):僕はグヌン・シトリあたり、アラサ郡フンバラカ村の出身。僕を仕事に誘ってくれたのは義兄。2010年頃、家が火事になって以降、ニアス島を離れてずっと出稼ぎをしていた。
以前、パダン・シデンプアン市(北スマトラ州)やトゥアラン・ジャヘ(不明、リアウ州のトゥアランのことか?)、プニャブンガン(ジャンビ州)に出稼ぎに行って、それからここに来た。プニャブンガンでは、ゴム農園で7ヶ月働いた。
ここに入った頃は収穫担当ではなくて、日雇いメンバーとしてだった。その後収穫担当の募集があったから、応募書類を出した。そして今まで、ずっと収穫担当のまま。
バラック小屋には住んでいなくて、シンパン・バンブという集落に暮らしている。フリーランスの人たちは、バラック小屋に住んでいる人もいれば、集落の中に住んでいる人もいる。僕は自信が所有する農園で暮らしている。昔はお父さんの農地だった。会社の農園じゃない。
お父さんが畑地を整備するために人を探して、だいたい4ヘクタールほど農薬を撒いてきれいに整えた。お父さんが農薬を渡して、僕が撒いた。1ヶ月でお父さんから170万ルピアの報酬をもらった。
それは(今は)家内が作業して、僕は会社で働いている。それで畑地に家がある。畑地を守るためにその家に暮らしている。
借家ではない。僕だけがひとり畑地に暮らしている。この農園での仕事のやり方は、朝礼があって、いくつ果房を収穫したか、2時までに報告する。数えるのは親方と一緒にやる。
この間問題は特になかったけど、将来はどうか分からない。病気になれば、クリニックに行くフリーランスもいる。でも僕らは、クリニックが開いているかそうでないか、診てもらえるかということなんだけど、まず優先されるのはSKO職員で、その後にフリーランス。労働という面では(SKOもフリーランスも)同じなのに。
違いは少しだけ。例えば、50房探せと言われた場合、職員は50房に届かなくても問題なくて、帰宅できる。フリーランスの場合、50房に届くまで作業しなければいけない。もし見つからなくても見つかるまで探す、違いはそれくらい。
子どもの学校について、フリーランスやSKO職員の子は学校に行っていない。だから僕らの子は学校に行っていない。この2棟のバラック小屋に、学校に行っていない子は20人ほどいると思う。学校に行っていないのは遠いからで、子どもの送り迎えができる、乗り物がある人がせいぜい学校に行けるくらい、つまりメダンから来た職員たち。そういった人たちは住宅に住んでいる。(社宅の意?)住宅に住めば、子どもは学校に行ける。
ML氏(女性)、第1区の日雇い労働者:私はグヌン・シトリ出身で、ニアスの田舎にいた時、仕事はゴムの樹液の採取だけだった。雨が降れば、家で座っているだけで、樹液の採取はできない。だからここに働きに来た。
アブラヤシ農園に連れてこられた時、船に乗った。ここに来た時大勢の人がいて、どうだったか、みんなニアス人で出稼ぎの人がここには多かったね。
田舎では畑がたくさんあっても大変だった。私は結婚していて、6人子どもがいる。3人男の子で3人女の子。ここでの仕事は、車1台、5トン分を2人で用意しなければいけない。頭が痛い話。作業に必要な道具は全部請負人が用意してくれる。
請負人の話では、この月に(給料が)出るらしい(筆者注:聞き取りした時点で、彼女は既に4ヶ月働いている)。日々必要なものは請負人が負担してくれない。請負人はただ給料を負担するだけ。買い物は、請負人が負担する。(恐らく誤植)労働者は外出してはいけない。
外で買い物をするのは問題なくて、必ず請負人から買わせられることはない。(筆者注:外での買い物が許可されている件は疑わしい、というのも、ML氏との聞き取りの際は請負人の親方が見張っていたからである)
請負人から米を買うと、米一袋30kg、30万ルピアかかる。協同組合で買うと、25万ルピア。
MN氏(女性)、第1区の請負労働者:村からの出立費用は自分たちで支払った。私らはひとりにつき50万ルピアかかった。私らの給料は、3ヶ月働いているのにまだ支払われていない。住むところはあるが小さな板張りの家で、電気はある。
家の物の買い物は、Nから買う。(筆者注:Nは請負人の名前で、組頭をやっている請負労働者らからそう呼ばれている)なんでも買えるけど、ンドゥル(Nのこと)から買うと高い。外で買うと安い。外で買ってもンドゥルは怒らない。病気になったら、薬は自分で手に入れる。
MB氏(女性)、第1区の請負労働者:私の子どもは3人で、1人はアチェにいる時に亡くなった。私たちはイスラム教徒じゃない。亡くなった子どもをアチェで埋葬する際に、1000万ルピア払わなければいけなかった。(筆者注:埋葬する土地を購入する)というのも、イスラム教のやり方で(筆者注:墓地の区画に)埋葬するから。だから1000万ルピアは払わなかった。
アチェに居たけど、耐えられなかった。場所はシンキル(恐らくアチェ・シンキル県)だった。1週間しか耐えられなかった。会社も、アブラヤシもよくなかった。
それで、ここに来よう、となった時、もう会社の名前は知っていた。組頭は、また将来お前は帰るだろう、ここで(も)長くないよ、また戻るだろうって言っていた。
ここの家はひどい。張られた板が壊れている。学校に行けている子どもはいない。このお姉さん(知り合いのML氏を指して)の子は、学校に通ったことがあったけど、ニアスで(恐らく小学校)3年生までで、ここ(の学校)に移るには転出入届が必要だった。
給料日までは、ボスにお金を借りれる。ボスの名前はンドゥル。私らの請負労働の給料は、1トンにつき2万8000ルピア。採れるのは7トンはあるから、2万8000をかけて、それが私らの給料ひと月分。
私らの仕事の担当は車3台分で、6人で作業する。3台を7トンでかけて、2万8000をかけて、最後に6で割る。一番いいのはkokos(インドネシア語にはないため不明、kekas、土を耕すなどの意か?)の作業で、一番よくお金になる。盛り土はヘクタール(面積)で給料になるけど、kokosの作業は1回で2万ルピアになる。
朝の4時に起きてご飯を作り、水浴びをして出かける準備をする。私らは仕事に出るのが6時半で、車で送ってもらう。交通費にひと月18万ルピアで、Nから給料が支払われる時に(交通費が)引かれる。
私らが仕事をしている間、子どもらはこのお姉さんの子がみている。(筆者注:子どもをみているのは15歳の女の子で、多くは乳幼児の10人以上の面倒をみている)お金はもらっていない、家族(の一員)だから。
私らは、夕方5時に帰る。帰りは徒歩のことが多く、バスには乗らない。待ち時間が長いから。5時に出て、夜の7時にようやく家に着く。仕事をしていて倒れた人はいない。悲しいことはないから。
私らはいつも、干物やしらす干ししか口にしていない。夕方にはインドミー(インスタント麺)を食べる。
私らの給料は、お天気が良くなければ、2ヶ月に1回ということがある。本当は1ヶ月に1回でしょう。2ヶ月に1回でひとりにつき、600万ルピアもらえる。もしもっと軽い作業があるなら、私らはそっちを選ぶよ。
SW氏(男性)、第6区の請負労働者:私は子どもを連れてニアスから逃げてきた。ここへやって来てまずは畑地(筆者注:森)を開墾し、それから会社(筆者注:アブラヤシ農園)で働くようになった。
子ども、弟らや兄と一緒に大勢でここにやって来た。今ここには5家族がいる。あそこ(筆者注:ニアス)で暮らすのはよかった。ドリアンがとれて、1キロわずか1500ルピアで売っていた。ドリアンを干したり調理したり。私の15歳の子は、パダン・シデンプアン(北スマトラ州)で学校に行っている。
私はグヌン・シトリの出身。グヌン・シトリの近くは石が多く、ドリアンが多い。安くて美味しい。ここでは高い。
向こうでは2000ルピアで買える。本当にドリアンがよくできていた。自然に生えていた。大きな木や枝は建材になった。
(今の稼ぎは)十分だと思う。子どもらは学校に行っているが、十分食べていけて、街でお米を買っている。子どもの学費は自分たちで支払っている。アブラヤシ農園の仕事で、ひと月に300万ルピア台の稼ぎがあるから。
働くのが3人だと、(ひとりあたり)500万ルピア台になる。つまり3人で1500万ルピア。(「木1本につき」が文章のどこにかかるのかが不明)毎日、果房120個、それ以上採れる時もある。
1日だと16万ルピア稼げる。それで一人分。キロ計測で売ったら私の場合は大体がそれ以上で、1日で20万ルピアぐらい。ベースの売値だと、12万5000ルピア。私は月曜から金曜の5日しか働いていないのに、時々果房が200個以上採れることがある。土曜と日曜は仕事をしない。